思考の試行

「無限増幅のうそ地獄」

 突然だった。

 急に,なんだか全部がこみあげてきて,涙がボロボロ溢れて止まらなくなった。

 それがつい三時間ほど前。

 

 いつからかはもう忘れたが,私の中で積み重なるものがある自覚はあった。笑うことが少なくなって,口数も減り,1人で行動することが増えた。信じていた人もどうでもよくなって,あれだけ力を注いだアルバイトにも興味がなくなった。というより,離れざるを得なくなった。

 

 五月頃まで遡る。主戦力であったアルバイトが前店長と揉めていなくなった。うちは日本酒を豊富に揃えた和食のお店で,彼女は店内でも数少ない顧客作りのできる人だった。彼女とは懇意にしていたので,前店長と揉めて多少なりとも傷つき疲弊した彼女に「やめないで」とは言えなかった。「好きにしたらいい」とだけ言った。

 しかし内心は複雑だった。日本酒の知識どころか,アルコールもろくに飲めない私には彼女の後釜は無理だと思った。彼女がやめてしまえば店が終わるとさえ感じた。

 でもやるしかないと言い聞かせ,今まで学生バイトであることを理由に真面目に向き合ってこなかった酒のことや接客,後輩の指導など,思いつく限りをこなした。時にはうまくいかず立ち止まることもあったが私なりに努力はしたつもりだったし,あの頃に比べれば接客も知識も多少はマシになったかと思う。前店長からも信頼を寄せられ,元来何かを任せてもらえることに喜びを覚える性の私は以前にも増してアルバイトに力を入れた。評価されることが嬉しかった。

 八月,新しい社員が来た。同い年で少々のさぼり癖で有名な子だった。ここからお店は,私のペースは,少しずつ崩れてきた。

 前店長がいるうちはまだよかった。前店長だって子供ではないので,うまく空気を作りながらも個人の性格や特性を見てそれなりに正当な評価を下してくれていたと思う。

 それが救いだった。新しい社員の勤務態度は気になりながらも,私が正しいよと太鼓判を押してくれる絶対的な存在がいることは,たとえ前店長とはたいして馬が合わなくても私に自信とエネルギーを与えた。既出の前店長はもちろん,そのほかの社員やパートアルバイトともうまくやれていたと思う。

 九月,人件費と食材費の削減に力を入れた。当たり前だが社員だけで回す方が人件費は安上がりだ。以前のように長くアルバイトに入ることが減った。それでも多くの仕事は任せてもらえていた。しかしやはり滞在時間の長い方が店のことを把握できる。私は少しずつわからなくなった。以前まで私がしていた仕事も次に出勤すると誰かによって済まされていた。誰かに何かを聞かれても答えられなくなることの方が増えた。そんな自分はすごく嫌だったが,私は所詮アルバイトでいつか卒業する身なのだから仕方ない,これが長い目で見たときに必ず店の今後のためになるんだと自分に言い聞かせた。 

 十月には前店長が異動になる。例え私にできることが少なくなっても,店の日本酒のことを把握しているのは私しかいない。新しく店長になると言われている人は仕事はできてもお酒の知識はないからお願いねと言われていた。せめてお酒だけはなんとかしようとより頑張った。酒屋に赴いて新しいお酒の選び方を知ったり,発注のしかたも覚え,わからないなりに試飲をして勉強も続けた。

 十月,ついに店長が変わった。もともと店の雰囲気は変わるだろうと覚悟はしていたが,想像以上にそれがこたえた。

 まず,私の意見は聞かれなかった。前店長と新店長の間でどんな風にやり取りがあったかは知らないが,私はお酒のことは任せたと言われていたので任されたつもりだった。最初の頃,新店長は私に少しだけお酒について尋ねた。答えたが,まともに聞いてくれないなという印象を受けた。

 発注のこともそうだ。何をどこに取ればいいかわからないというので私が知っていることを伝えた。九月に食材費を抑えた際に,無駄な発注をせずお酒は減る一方だったので,せめてグランドメニューにあるものはこのタイミングで揃えたいと言ったのだが,いい顔はされなかった。せっかく十月からメニューが新しくなったのに,日本酒の店なのに日本酒がないなんて,と思った。

 新店長の人件費はなるべく抑えたいという意向で,最小限のメンバーで店を回すようになった。人が足りないから接客が疎かになる悪循環が生まれた。新店長が前にいたお店とは規模も形態も単価も違うのだから,例え今あなたが店長であなたのお店だとしても,合わせるべきところは合わせてほしかった。あなたのやり方を否定はしないが,私たちのやり方やいいところも見つけてほしかった。

 私は何をしていたかというと,キッチンの人が足りないからとキッチンに入ることが増えた。外に出ようものなら「キッチンだろ」と言われた。今人が必要なところに行ける人が行けばいいのにと思った。たまに後輩の子に表の様子を聞いてアドバイスをしたり励ますことしかできなくなった。キッチンはキッチンで,私はずっと中にいるのに売り上げがいくらか,今何組残っているのかを私に尋ねては答えられない私に苛立っていた。ずっと一緒に中で仕事してて,あなたがわからないなら私にもわかるわけがないのにと思った。自分で確認しにいけばいいじゃんってムカついた。大好きだったけど不信感の方が強くなった。

 店の雰囲気はかなり変わった。周りからも言われるようになった。少しにぎやかになったと思う。店長に会いに来るお客さんも多い。店長がそこにかかりっきりになって一緒に飲み始めることだってある。でもそれは店長が今までそのようにして捕まえたお客さんだし,店が変わっても会いに来てくれる人は大切にするべきだと思うから否定はしない。そう,否定はしない。

 だけど耐えられない。

 自然と早く帰ることが増えた。休める日は休むようになった。そうすれば次に出勤した時に余計に状況がわからなくなってしまうことだってわかりきっていたけど,もうどうでもよかった。人が変わってお店が変わらないわけがない。私はどうせ直にいなくなる人間なのだから自我を通したって仕方ない。そう思うようにした。

 この間ふと日本酒セラーを見たら知らないお酒があった。だけど私は知らないからそれをどうこうする権利はない。店長には以前私がやっていた日本酒に関する仕事はやらなくていいと言われた。きっとここは喜ぶべきところなのだろう。

 勤続うん十年の仕事人間だった人が退職した途端に痴呆になったとか,趣味を取り上げられた旦那が急に無気力になったとか,きっとそんな感じと似ているのだろうとぼんやり思った。私の心はじわじわと壊れ始めていたんだろう。

 今日は急に休みになった。というより,休みになっていたことを知らなかった。溜めていた用事を済ませ1人でぼやっと考えた。休みがちだったとはいえ,何かしら用事を入れたり人に囲まれたところにいるようにはしていたので,1人でゆっくりするのは久しぶりだった。

 いつからかなあと考えた。見ないふりをしていた感情に向き合ってみた。

 そうしたらなんだかいろいろ溢れた。感じる前にボタボタ涙がこぼれた。自分でもびっくりするくらい止まらなかった。そういえば大好きだった人ももういないし,信頼してた人も嫌になって,任された仕事は取り上げられたし,必死で繋げたつもりだった空間はもうなかったっけかと思った。誰かにゴチれば「アルバイトなんだからそんなに頑張らなくていいじゃない」と言われた。頑張っていた自分を丸ごと否定された気がしたが,これが普通なんだと言い聞かせたことも思い出した。私ってなんなんだろうと思った。「意思なく生きてるよね」と言われた。唯一強い意志と信念を持てる空間だったんだけどな,と思った。

 だけど実際そうなんだ。たかだかアルバイト,限界ってあると思う。私は新しい店長が来るまでの繋ぎに過ぎなかったし,どれだけ頑張っても上の方針なら仕方ない。合わなくて,しかも私がマイノリティなら私が順応するか出ていくかしかないと思った。でも今までを思い出してつらいから順応なんて絶対に無理だってわかってて,だから出ていくしかなくて,徐々に徐々に消えて,幽霊になろうと思った。年末シーズンを目前に,せめてもの餞。

 こんなにバカ真面目にバイトしてる人なんてなかなかいないから,社員ですら省エネ派が多いんだし,だから理解は得られないだろうって思う。働かなくて済むじゃんなんて軽く言われても,そうだねって笑うしかないんだろうと思う。大勢に馴染むためにここにだけ吐き出してやる。死ーね

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